『PONO(ポノ)』は、そのアイデアを思いついた時点から、“瞑想のお供”であったわけではありません。
ちょっとだけゲーム性があって、
癖のように、好きなだけ、いつまでも遊べる、
手遊びの道具があればいいなぁ……。
という願望を実現したものが、『PONO(ポノ)』です。
もともとは玩具として着想し、試作機誕生まで20年、スマホ版リリースまでさらに5年、ここまで計25年を費やしていますが、スマホ版リリースの際に新しい角度から光を当て、「瞑想ゲーム」というキャッチフレーズを新たにプラスしました。
本記事では、
「瞑想とは何なのか?」
「瞑想とマインドフルネスの違い」
「PONOと瞑想との関係性」
について、ぐんと掘り下げて語ってみたいと思います。
※ 『PONO(ポノ)』のゲームシステムは、2023年に特許を取得しています。ゲームというだけで興味を失う方がいますが、そんな方はとりあえず「心が落ち着く、ちょっとだけ頭を使う単純作業」と捉えておいてください。
Contents
瞑想とマインドフルネスの違い
どちらもヨガや仏教と関係がある
皆さんは、「瞑想」という言葉にどんなイメージを持っていますか?
何となく、宗教的なイメージがあって、近寄りがたい……。
という人も少なくないでしょう。
そのため、最近の瞑想ブームの牽引役となっている媒体では、「マインドフルネス」という言葉を多用しています。
もうひとつ、「マインドフルネス瞑想」というように、合体させた言葉を使っているものもあります。
ですが、マインドフルネスにしても瞑想にしても、昨今、注目を浴びているのは、これらがヨガブームの延長線上にあるからです。
仏教の祖であるお釈迦様も、ヨガの瞑想で悟りを開いた、と言われているように、仏教とヨガは切っても切り離せない関係性があります。
ですので、瞑想もマインドフルネスも、宗教的なイメージからは逃れようがありません。
いや、逃れる必要がないんです。
マインドフルネスより瞑想?
もちろんここでは、仏教やヨガについて、詳しく触れていくつもりはありません。
ただ、「マインドフルネス」と「瞑想」に関しては、きちんと区別しておく必要があるでしょう。
それぞれの言葉の「イメージ」と「広く知られている定義」を、ざっとまとめると、以下のようになります。
◆ マインドフルネス | ・瞑想を軽くしたもの
・心身を瞑想させ自分を高めるもの 今この瞬間に注意を向け、大切にすること(今ここに100%集中すること) |
◆ 瞑想 | ・お寺でやっている?
・イメージが刷新されていない人にとっては少し近寄りがたい? 心を静めて無心になること(頭の中を整理すること) |
ここから、
- マインドフルネスと瞑想が一緒くたにされる理由
- マインドフルネスのほうが(どちらかというと)推されている理由
も見えてくると思います。
後者に関しては、
アメリカのビジネスパーソンたちも、こぞって「マインドフルネス」をやっています!
という触れ込みも多用されていて、それにカタカナだし、何となくオシャレ感ありますからね。(笑)
……ただ、私はひたすら「瞑想」を推します。
PONOは別名「瞑想ゲーム」であって、「マインドフルネスゲーム」でも「マインドフルネス瞑想ゲーム」でもありません。
なぜか?
その理由をこれから説明してみたいと思います。
瞑想とは「遊びのように身近で楽しいもの」
“今ここ”へ集中することへの違和感
「マインドフルネス」の対義語は、「マインドレスネス」です。
(マインドワンダリングと言ったりもします。)
以下、表にして整理してみましょう。
◆ マインドフルネス | 頭の中をひとつの対象でいっぱいにした状態。つまり、集中している状態。 |
◆ マインドレスネス (=マインドワンダリング、Mind-wandering) |
頭の中にいくつかの対象が混在している状態。つまり、集中しておらず、いろんな考えが駆け巡っている状態。 |
※ wanderとは彷徨うという意味です。
ちなみに、マインドフルネスを紹介した本では、よく「今ここ」という言葉が登場します。
今ここに集中しましょう!
という感じで。
これらの本では、だいたいにおいて、「かんたんに説明します」と言いながら、専門用語を連発して知識披露に酔っているフシがあります。
マインドフルネスであなたの夢が叶いますよ、健康になって、薔薇色の人生になりますよ、みたいな感じで、フワッとまとめてあります。
そうしたことを私は全否定はしません、そうなる可能性は確かにあります……いやむしろ、そうなる可能性は高いです。
ですが私としては、
そんな高尚でオシャレな感じにしなくていいんじゃないのかな……?
と思うわけです。
そんな“意識高い系”な感じに扱わなくてもいいんじゃないのかな……?
と。
それに、「今ここ」って語呂がいいだけに、聞くと一瞬分かったふうな気持ちになりますけど、実際、よく分からなくないですか?
今ここ、目の前のことだけに集中するって、難しくないですか……?
確かに、マインドフルネスを心がけたり、実行したりして、好ましい効果を得る人は多くいるでしょう。
ですが、
その人たちも、真の意味で、“マインドフル”の状態には、おそらく達していないんじゃないかなぁ……?
人間の脳で、マインドフルな状態って、厳密には無理なんじゃないのかなぁ……?
マインドフルよりもむしろ、頭の中に積極的に“隙間”をつくろうとするほうが、かんたんだし、気軽にできるし、楽しいし、続けられるんじゃないかなぁ……?
と、私は思うのです。
頭の中につくったその“隙間”を、
・ぜんぶ空白にする(無心になる)か、
・そこを使って自分にとって必要なことを考えるか
は、当人次第です。
それに、
・何かのアイデアを思いつく時
って、リラックスしていて、かつアイデアの種が常に頭の片隅にある状態で、それが何かのきっかけとともに急に膨らんでくるものだと思うんです。
何かに「100%集中している時」ではないと思うんです。
そもそも「100%集中」ということ自体、無理なんじゃないか、と私は思っているわけですが……。
“フル”にしてしまっては頭の中を整理できない
私は、瞑想の「頭の中を整理する」という役割を非常に気に入っています。
よそに“隙間”があるからこそ、“整理”ができるわけですしね。
(よそに置き場所がないと、掴まえても移動させることができません。)
いや、マインドフルネスだって、頭の中を整理できるよ!
と言う人もいるでしょうが、“フル”だと“隙間”がないじゃないですか。(笑)
物理的な言葉で言えば、“隙間”。
心理的な言葉で言えば、“余裕”と“ゆとり”がないわけです。
正式な瞑想における、手で印を結んだり、マントラを唱えたり、呼吸や姿勢を意識したりするというのは、要するに、シンプルなことに意識を向けて、頭の中に“隙間”をつくっているのだと、私は解釈しています。
瞑想という言葉にもっと親しんでいきたい
ここで、私が「マインドフルネスより瞑想を好む理由」を整理してみましょう。
瞑想とは、頭の中を整理すること。
⇩
「頭の中を整理する」とは、頭の中に積極的に、隙間や余裕やゆとりをつくること。
「マインドをフルにすること」とはちょっと違う。
⇩
ちなみに「隙間」のことを、別名「遊び」と言ったりもする。
⇩
……つまり、瞑想は「遊び」のように身近で楽しいもの!
⇩
だから私は、マインドフルネスより瞑想のほうが好き!
昨今では、ヨガブームの延長線上にあって注目された「瞑想」をより親しみやすくするために「マインドフルネス」という言葉が使われているフシがあります。
もっとはっきり言えば、「瞑想」を「マインドフルネス」とライトに言い換え、いかにも“新しくオシャレなもの”のように見せかけて、商売のタネにしているフシがあります。
しかし、私としては、
「マインドフルネス」という呼称では、本質からズレていってしまうんじゃないか……?
という気がしてならないのです……。
『瞑想』
=「頭の中を整理すること」「心と体をリラックスさせること」
= 高尚なことでなく、身近な遊びのように楽しいこと!
としたほうがいいです。
ですから、そのためには「瞑想」という言葉を避けないほうがいいです。
だって、瞑想は楽しいものなのだから。
何となく深遠で難しいイメージがある言葉ですが、この「瞑想」という言葉そのものに馴染んでいき、親しんでいき、身近になっていったほうが、長い目で見れば、多くの人々にとって有益だと思います。
瞑想とは「無意識を意識すること」
瞑想の3手順
瞑想に関する本の中では、瞑想家・宝彩 有菜(ほうさい ありな)さんの本が、最も分かりやすく、簡潔にまとまっていると思います。
そこには、瞑想について、こう説明してあります。
瞑想は、以下の3手順。
- 集中
- 気づき
- 棚上げ
……これを私なりの言葉でまとめると、
- 集中することで、
- 自動思考を止め、悩みの本質に気づき、
- それを放念する
となります。
「放念する」とは、かんたんにいうと「気にしなくすること」「忘れること」です。
セリフにすれば、
ま、いっか!
ま、なるようになるさ!
てな感じですね。
「自動思考」とは「自分の頭の中で勝手にエスカレートしていく悩みや不安のこと」。
心を落ち着けてみれば、
あれ? 今私が、こんなつまらないことで激怒しちゃったのは、もしかして、アノことを気にしてるからなのかな……?
※ アノこととは、直接的には関係がないような「過去」あるいは「未来」のこと。
と、気づくことができるわけです。
※「自動思考」は心理学用語でもあります。
無意識を意識するから、気づくことができる!
……で、問題は、❶の「集中」の部分です。
上では「心を落ち着ける」と書きましたが、宝彩さんの言葉を借りれば、「集中とは、散らかった頭の中から“思考の種”を取り上げてしまうこと」とあります。
“思考の種”を取り上げない限り、頭の中の「考える機能=マインド」が働いてしまう、と。
そのために、マントラを唱える、というのが、宝彩さんの提唱する瞑想方法です。
ここからは、また、私の論を展開します。
集中して、
⇩
心を落ち着けて、
⇩
思考の種を取り上げて、
⇩
自動思考をストップさせて、
⇩
気づく……
この過程には『客観的な視点』が生まれていることがポイントであると言えないでしょうか?
これは、言い換えれば、『無意識を意識する』ということです。
そうです、「無意識」を別方向から眺めるための視点を、新たに作らなくてはならないのです。
つまり、あえて、意識を分離させなくてはなりません。
意識を分離させるからこそ、客観的な視点が生まれ、そこから「無意識」を眺めることで、「気づく」ことができます。
よく言う、“いまここ”に意識を集中させること(=マインドフルネス)とは、まったく違うことが展開されているわけです……。
多くのマインドフルネスを扱った本では、「気づき」について言及はしているものの、このあたりの説明および論理が、曖昧になっていると思います。
※ マントラとは、インドに古くから伝わる「心を整える働き」がある言葉のこと。宝彩さんの本では、マインドフルネスと瞑想を一緒くたにしていないところに、私として非常に好感を持っています。伝統的な瞑想について詳しく知りたいなら、宝彩さんの本が断然オススメです。
集中力を余らせることがポイント
私の考える瞑想の本質
さて、ここまで語れば、私の主張の概要が、もうほとんど見えてきたと思います。
私の考える【瞑想の本質】を、ざっとまとめてみましょう。
瞑想とは「頭を整理する遊び」で、それはけっして高尚なものではなく、身近で楽しいものでなくてはならない。
⇩
頭を整理するには、あえて意識を分離させ、新しい視点を作る(意識から無意識を眺める)必要がある。
⇩
新しい視点をつくるためには、「頭の隙間」が必要。
⇩
「頭の隙間」をつくるには「シンプルな動作」に集中するのが一番!
マインドをフルにするのではなく、あえて頭の中に隙間を作り、“意識”から“無意識”を眺めるのがポイントです。
人は頭を整理したくて、無意識にシンプルな動作を求める
ここで言う「シンプルな動作」とは何か?
それはたとえば、手で印を結んだり、マントラを唱えたり、呼吸や姿勢を意識したりすることです。
では、それが楽しいか? 遊びと言えるか?
……ちょっと難しいでしょう。(笑)
でも、頭の中に隙間をつくる方法は、本当はたくさんあります。
人はそれを、それこそ“無意識”でやっています。
当然、あなたもです。
無意識に、
- 指で髪をくるくる回したり、
- 爪を噛んだり、
- 貧乏ゆすりをしたり
することが、それにあたります。
要するに、「癖(くせ)」ってやつですね。
子供の頃、
- むやみやたらに川に石を投げ続けたり、
- むやみやたらに木の棒で地面を掘り続けたり……
しませんでしたか?
ああいいうのも、それに当たります。
ときどき無性に、
- 一心不乱にリンゴの皮を剥き続けたくなる人
- 一心不乱に風呂掃除をしたくなる人
がいます。
- シール貼りや包丁研ぎなど比較的単調な作業を好む人
がいます。
また、
- ただただ歩き続けたい気分になる時
があなたにはありませんか?
……これらは全部、人が“頭を整理したい”から、やっていることです。
人がついやってしまう「癖(くせ)」も、そうです。
そしてこれは、動作がシンプルなほどいいんです。
なぜなら、シンプルな動作であれば、それにどれくらい集中力を注ぐか、自分で調整することができるからです。
自分で調整することができれば、心に「余裕」と「ゆとり」ができ、頭の整理がより捗(はかど)ります。
それに、人間は慣れる生き物ですから、何度も行い、その動作に“慣れて”しまえば、ほとんど頭を使わずに、それこそ“無心”で行うことだってできます。
つまり、
「シンプルな動作」および「瞑想」で、
- 頭の中を整理することもできるし、
- 無心になることもできる
わけです。
「集中している状態」と「無心の状態」は限りなく近い
私自身、まったく宗教に縁はありませんが、関 大徹(せき だいてつ)さんという有名なお坊さんには、私が大好きなエピソードがあります。
それは、
蝉(セミ)の鳴き声を聞きながら悟りを開いた
というエピソード。
このことを知ってから、私は蝉の声がより一層好きになりました。
当然、蝉にはたくさんの種類がありますから、鳴き声もいろいろ。
その鳴き始めや、鳴き終わりや、合唱に耳を澄ましている時などに、100%集中し、“マインドフル”になっているでしょうか?
……なっていないと思います。
意識の使い方次第で、いろいろな蝉の声を、聞き分けることもできるし、まとまったひとつの音として聞くこともできるし、そこは自分で調整できます。……まさに自由。
ひとつ言えるのは、蝉の声に耳を澄ますのは、ごくシンプルな動作ですから、まちがいなく集中力が余ります。
これがものすごく大事。
この余った集中力、つまり、頭の中の隙間を使って、頭を整理するのもいいですし、それによって自分の悩みの根源に気づくのもいいでしょう。
あるいは、ひたすら無心になってみるのもいいと思います。
実は「シンプルな動作に集中している状態」と「無心の状態」は限りなく近い
のです。
そして、瞑想や頭の中の整理などの目的で、シンプルな動作を行う際は、
- いかに集中力を余らせるか?
- どれくらい集中力を余らせるか?
- そこにどれくらい“自由度”があるか?
が、とても重要なポイントになってきます。
先ほど例に出した、
- 一心不乱にリンゴの皮を剥き続けること
- 一心不乱に風呂掃除をすること
などのシンプルな動作は、いずれも自分で調整できる、そんな自由度がありますからね。
SMAPの『JOY』に見る、瞑想そして人生の本質
歌詞に出てくる“無駄なこと”とは?
ここで一度、脱線します。
(またすぐ戻りますので、少しお付き合いください。)
言わずと知れた、あのSMAPの歌に、
♪ 無駄なことを一緒にしようよ〜
という歌詞が出てくる歌があります。
この歌をつくったのは、津野 米咲(つの まいさ)さんという女性です。
私は、この歌のこの歌詞を聞くと、ゾクッとして涙が出そうになります。
津野さんが、意識していて分かっていたのか、無意識に掴んでいたのかは不明ですが、この歌のこの歌詞は、とてもとても深くて、この世の中の真理にまで近づいているんじゃないかと、私は思います。
たいていの人は、この歌のこの歌詞を、
無駄のように思えることでも、必ず意味があるってことでしょ?
くらいに受け取っていると思います。
ただ、私は、それだけでは、核心には至っていないと思うんです。
かくいう私も、自分なりに理解するまで、かなりの時間を要しました。
以下、私の考察を述べます。
人生は遊びであり喜び。それを通して自分を発見できる!
「遊び」とは、本来、生きていくためには、しなくてもいいことなんです。
言ってみれば、「無駄なこと」。
この歌詞に出てくる「無駄なこと」とは「遊び」と解釈してよいと思います。
しかし、遊びの中にこそ、本当の自分が存在します。
そして遊びには、それが遊びであるからこそ、「いつでもやめられるという自由」があります。
(いつでも止めることができない、つまり、使命や責任を伴うものなら、それは遊びとは言えないでしょう。)
そうした遊びに触れることは、「無意識の自分を探る」ということになります。
遊びを通して、無意識を意識化し、それによって自分を発見し、自分に気づくことができます。
これは、瞑想の本質に、とてもとても近いです。
それを「♪一緒にしようよ〜」というのです。
そしてこの曲のタイトルは、
『JOY』なのです。
『喜び』という意味です。
……そうです、それが人生の喜びなのです!
※ もちろん私は、津野さん本人ではないので、これは推察に過ぎません。しかし、歌詞に出てくる「平日の顔」などの言葉は「仕事」を想起させますし、それに対する「遊び」について語っていると考えるのは、それほど的外れではないでしょう。ただ「遊び」は本来、英語では「PLAY」です。もし、この曲のタイトルが『PLAY』だったら、どうでしょうか……? そこをあえて「喜び」を意味する「JOY」に換えた津野さんはスゴイです。「遊び(=無駄なこと)」によって、自分を発見し、自分に気づくことこそ、「人生の喜び」なのです。 ……本当に素晴らしい歌詞です。(※ 歌詞全文はこちら)
PONOは瞑想できる遊び。そして人生は遊び
PONOと瞑想との親和性
さて、ここで、これまでに出てきたキーワードを振り返りながら、本記事を総括していきます。
- 集中力を余らせる
- 無意識を意識する
- 瞑想とは、頭の中を整理すること、心と体をリラックスさせること
- 瞑想は身近な楽しい遊び
- 遊びとは、本来、無駄なこと
- 遊びとは、いつでもやめられること、つまり自由
- いつでもやめられる、逆に言えばそれは、やめない限り永遠に続く
- 遊びによって、自分を発見し、自分に気づくことができる
- 自分で調整できるシンプルな動作によって、頭の中に隙間をつくれる
- 自分で調整できる、それはつまり自由
- 頭の中の隙間を作ると、新たな客観的視点が生まれる
- 新たな客観的視点から、自分の無意識をのぞくことができる
では、次に、『PONO(ポノ)』の特徴を挙げていきます。
- PONOはゲーム(つまり、遊び)
- 自分でやめない限り終わらない
- どれくらいプレイするか、いつまで続けるかは、完全に自由
- ごくシンプルなゲームゆえ、集中力が余る
- ランダムに生まれる指示を受け入れ、取捨選択を続ける、それはまるで人生
- 指示をクリアしない限り次の指示が出ないので、完全に自分のペースで遊べる
冒頭で紹介した、私が実現したかったイメージ、
ちょっとだけゲーム性があって、
癖のように、好きなだけ、いつまでも遊べる、
手遊びの道具があればいいなぁ……。
をほぼ実現したものが、『PONO(ポノ)』です。
そしてこれは、“瞑想の道具”といっても過言ではないものでした。
25年前に着想を得た時は、そんなことは考えていませんでした。
ただ、これを、自分自身が欲しい……。
その一心のみに支えられ、長年、実現の道を模索し続けてきました。
そんな『PONO(ポノ)』を“瞑想ゲーム”と呼んではいけませんか?
誰かから止められたって、私は勝手に、自由に、そう呼びます。(笑)
気軽に触って、気軽に遊べて、気軽に瞑想できる『PONO』
瞑想は、本来、非常に幅広い概念です。
伝統的な宗教的瞑想だけでなく、上にいくつか挙げたような、“単純作業に一心不乱になる状態(フロー状態やゾーンに入ると呼ばれるもの)”も、ある種の瞑想と捉えることができます。
この「瞑想」という言葉を、狭く限定せず、広義に解釈し、普及させていくことは、非常に意義深いことだと思います。
たとえば、日常の何気ない行動や動作を振り返って、「そういえば、自分にとって、あれも瞑想、これも瞑想だな……」というふうに。
……ここでもう一度、繰り返します。
瞑想とは、身近な遊び
なんです。
ぜひ、
気軽に触って、気軽に遊べて、気軽に瞑想できる『PONO(ポノ)』
を楽しんでみてください。
『PONO(ポノ)』は、極めてシンプルで、極めて地味です。
でもだからこそ、あなたの日々の生活に、人生に、寄り添うことができます。
より多くの人がこの『PONO(ポノ)』をプレイして、
- 自分を見つめて、悩みが軽くなったり、
- 精神を集中して、テストの点が上がったり、
- 無心になって、ストレスや疲労から解放されたり、
- 頭の中に隙間をつくって、新しいアイデアを思いついたりして……
世界がちょっとでもよくなったら、それが私の「喜び」です。
……でもそうならずに、こうしてリリースしたものの、“無駄なこと”として終わっても、別にいいんです。
それこそ、
ま、いっか!
です。
だって、すべてが、私の遊び。
これが、私の人生ですからね。(笑)
……最後に、いつ聞いても私の胸に沁みる、この言葉を紹介します。
此世(このよ)は自分を探しに來(き)たところ
此世(このよ)は自分を見に來(き)たところ
河井 寛次郎
※ 河井 寛次郎(かわい かんじろう)= 大正から昭和にかけて活躍した、陶芸家、詩人、造形作家、インテリアデザイナーなど多様な顔を持つ芸術家。
改めて、この記事に登場した偉大な方々、宝彩 有菜さん、関 大徹さん、津野 米咲さん、河井 寛次郎さん、そしてここまで読んでくださった皆さんに感謝を捧げ、この記事を終わろうと思います!
ありがとうございました!
ただ、PONOは完全に慣れ親しむまでは、それなりに頭を使うので、はじめのうちは「脳トレ」のような感覚が大部分を占めるかも知れません。ある程度、慣れてしまうと、プレイしながら無心になれる心地よさが味わえると思います。
『PONO(ポノ)』のダウンロードはこちら(完全無料、課金もなし!)
『PONO』は誰でも無料です。課金要素や強引な割り込み広告もありません。
この画面をスマホで見ている方は黒いバナーから、PCで見ている方はスマホでQRコードを読み取ってダウンロードしてください。